魔法少女まどか☆マギカで学ぶ仏教思想

先日、「魔法少女まどか☆マギカ」の最終話が(ようやく)放映されました。その内容には賛否両論あると思いますが、ごく一部で話題になっている事として本作と大乗仏教思想の類似性が挙げられます。しかしながら私が適当に検索を掛けてみたところ、断片的な類似性の指摘はあっても本格的な考察は見当たらなかったので、このような記事を書いた次第です。この記事は仏教学入門とアニメ「まどか☆マギカ」の評論という2つの面を持っています。従って同作についての激しいネタバレを含みますのでご注意ください。*1


・そもそも仏教とは?

ご存知のように仏教は紀元前5世紀頃*2に、北インドで生まれた宗教です。その開祖は俗名をガウタマ・シッダールタと伝えられ、一般にはブッダ(buddha)の称号で知られています。buddhaとは「目覚める」という意味の動詞budhの過去分詞形であり、(真理に)目覚めた人という尊称として使われています。またブッダはその出身部族の名を取って釈迦牟尼、すなわちシャーキャ族の聖者とも呼ばれています。仏教は彼の死後南アジアから東アジアまで広がり、一口に仏教といっても極東の日本からインド亜大陸の突端のスリランカまで、地理的にも思想的にも大きな隔たりがあります。しかしながらそれらが仏教というアイデンティティを保っているのは、その根本的な目的が1つだからです。それを一言で表すと「苦から解放されること(=解脱)」ということになります。

ブッダの最初の説法(初転法輪)において、この「苦からの解放」という思想が四諦という形で説かれたと言われています。 諦とは「真理」という意味で、四諦とは苦諦・集諦・滅諦・道諦という4つの真理を指します。苦諦とは一切が苦であるという真理です。代表的な苦である「生・老・病・死」を四苦と呼び、これらに「愛別離苦・怨憎会苦・求不得苦・五取薀苦」を加えたものを八苦と呼びます。四苦八苦という慣用句はこのことに由来します。 集諦とは苦の原因についての真理です。それは端的に言うと煩悩と称されるもので、無常である物事に執着することが苦の原因であると説かれています。執着のうちで最も大きなものは、自己という存在に対する執着です。仏教では不滅の魂(インド哲学用語で言うところのアートマン)というものを認めませんから、自己を保存しようとする欲求は必ず死を以って裏切られることになります。このように、無常な世における執着というものは決して満たされないものであり、それゆえに苦が生じるのです。苦の原因 滅諦は、苦の原因である煩悩を滅ぼすことが涅槃(=解脱)であるという真理です。この涅槃=解脱が仏教の目標であり、それを実現するための手段が道諦で述べられる八正道です。八正道とは正見、正思惟、正語、正業、正命、正精進、正念そして正定の8つです。その個別の内容は割愛しますが、それぞれが仏教の修行者としての行動の指針を示したものになっています。

大乗仏教の誕生

このように、仏教は一貫して「苦」というものを最大のテーマとしています。まどか☆マギカにおいては、苦を象徴するのは魔女という存在です。魔女は魔法少女の希望が絶望に転じた時に生じます。この絶望とは、キュウべえの言葉を借りれば「希望に裏切られた」という思い、つまり求める理想と現実との不一致のことです。これはまさに、希望という名の執着から苦が生まれるという事に他なりません。実際キュウべえは、希望を持ち続ける限り苦しみはなくならないという趣旨のことも述べています。キュウべえは感情を持たず、何かに執着するということもありません。彼(?)は作中で、最も大乗以前の仏教の理想に近いキャラクターと言えるでしょう。

さて、キュウべえのように執着を捨てれば自らの苦しみから逃れることは出来ますが、他の多くの人を救うことは出来ません。まどかと同じように、この点から旧来の仏教を批判する勢力が現れ始めました。すなわち紀元前後頃、それまでの仏教が他者を軽んじていることを批判し、利他という概念を前面に押し出した大乗仏教が登場したのです。この大乗仏教は東アジアに伝わり、今でもチベット・中国・朝鮮半島・そして日本において大きな影響力を持っています。一方でスリランカやタイでは大乗以前からの伝統を受け継ぐ、上座部と呼ばれるグループの仏教が盛んに信仰されています。

・菩薩と利他の思想

最初に述べたように、ブッダ(仏)というのは仏教の開祖である特定の個人を指す名称として使われていますが、元々は「目覚めた者」という普通名詞です。そこから、歴史的な仏以外に無数の仏が時空を超えて存在しているという思想が生まれます。この大乗的な仏は単に自らの苦から逃れてただけではなく、他者を苦から救済する存在でもあります。彼らは元々は人間でしたが、人々(衆生)を救う願を立てて修行に励み、願を成就して仏となったのです。この衆生を救うために仏になろうとする心を菩提心(bodhi-citta、悟りを求める心)といい、*3菩提心を抱いて修行に励む者を菩薩(bodhi-sattva)と呼びます。

当然ですが、時空を超えた無数の仏の存在を証明することは不可能であり、近代的な価値観の下においてそれは一種の理想像として理解されます。しかし理想を求める菩薩というのは何ら超自然的なものではなく、菩提心を抱けば誰でも菩薩となることが出来るのです。この菩薩という修行者像の特徴は、彼らが単に他者を救うための存在ではなく、他者の救済がまたそのまま自己の救済でもあるということです。これを自利利他、或いは自利即利他といいます。なぜそんなことが言えるのかというと、人間の心には共感という能力があるからです。菩薩は苦しむ人々に共感し、彼らから苦を取り除くことを喜びとするのです。これはキリスト教的な「贖罪」の考え方とは、似ているようで大きく違います。ただ他者の苦しみを肩代わりするのではなく、他者と共に苦から解放される道を歩むのが菩薩なのです。

まどかの最大の苦しみは、「すべての魔法少女が苦しんで魔女となる」ということ自体にありました。そして彼女はすべての魔法少女を救うという願いを立てたのですが、その中には彼女自身も含まれていたのです。そして彼女は自らの願いを成就し、自我・我執から解き放たれて世界に遍在する1個の概念となりました。これを仏教的に見ると、彼女が解脱して仏となったという風に解釈できます(キュウべえは「神にでもなるつもりなのかい?」と言っていますが)。ここで言われている「概念」というのは仏教学的には法身と呼ばれるものに対応します。身体を持つ一人の人間としての仏(応身)に対し、真理(仏法)そのものとしての仏のあり方を法身と呼びます。

・大乗経典とまどか☆マギカ

以上のようにまどか☆マギカの物語は大乗仏教的な思想とよく馴染むだけではなく、構造的にも大乗経典のテンプレートに則っています。大乗経典は初期の経典に比べて物語性に富んでおり、特に浄土三部経などでは主題となる仏が過去に願を立てて仏となるプロセスが詳しく描かれています。また元々輪廻の思想は仏教にとって本質的なものではないのですが、時代が下るにつれて仏教の内部に深く組み込まれるようになり、「ジャータカ(本生譚)」と呼ばれる釈尊の前世の得業を記した文献が大量に作られます。そして菩薩は現世の修行だけで仏になるわけではなく、何世にも渡って功徳を積むことで仏になるという思想が主流になっていきます。まどか☆マギカのループ構造もやや変則的ではありますが、このような伝統に近しいものと考えられます。*4

・まとめ

まとめると、まどか☆マギカはまどかという一人の少女が「すべての魔法少女を救う」という願を立て、それを成就して仏=ブッダとなるまでを描いた物語というように解釈できます。まどかにとって他者の救済が至上の願いですから、その成就は彼女自身にとっても救いとなります。そしてそれは現世だけで達成できたものではなく、何本もの時間軸に渡って繰り広げられた因果の終着点なのです。

では最後に念仏をば。

南無摩度訶仏!

*1:この記事はあくまで「このように解釈することもできる」という1つの見方を提供するものであり、脚本家である虚淵玄氏がどのような意図で脚本を書いたかということには拘泥していません。また一般向けの概説であるという性格上、学問的正確さを保証するものでもありません。学部のレポート程度の内容だと思ってください。

*2:南方系と北方系のどちらの資料を用いるかによって1世紀ほどの誤差があります。

*3:bodhiもbuddhaと同じく動詞budhから作られる派生語です。

*4:霊魂を認めないのにどうして輪廻が可能なのかという問題は、古くから仏教教団の内でも外でも議論されてきました。これを突き詰めて「阿頼耶識」という概念を生み出したのが唯識思想です。